天皇家の紋章で有名な菊花の紋(正しくは十六葉八重表菊:じゅうろくよう やえ おもてきく)は有名ですが、テレビ放送などで総理大臣や官房長官の演説台に五七桐(ん、豊臣秀吉?)が映るのを見たことがあると思います
今回はなぜこれが現在政府の紋に使われているのかという事と、どう言う経緯で一般庶民の家紋にも使われているのかを簡単に解説する記事です
この記事では紋章・家紋に関しての歴史的な背景を料理人の私が超簡潔にまとめています
その為、細かな詳細は割愛していますことご容赦ください
これらをサクッと理解し、蘊蓄(うんちく)がてら話せるようになりましょう!!
また、日本料理においては菊のことを「もってのほか」といって食用紫菊のこと指します
「天皇家の家紋を食べるとはもってのほかだ!」や予想外を意味する「もってのほか美味い」
と教わりました
料理人はこれも合わせて覚えましょう
これを献立にそのままの名前で使います、9月の献立に「もってのほか」と書いていれば紫菊の事ですよ
日本政府の紋章になぜ桐の紋が使用されているのか
各在外公館・日本国大使公邸には五七桐がついた和洋食器が配備されており、公邸料理人はこれらを会食に使い料理を仕上げていきます
この紋に関して知らないことを勉強しましょう!
結論
家紋・五七桐(ごしちのきり)は、かつてからの皇室専用の紋章だったと言う事です!
第52代天皇の嵯峨天皇が作った家紋であり、
足利尊氏よりも豊臣秀吉が使用していたことが
一般的に知られている桐紋の一種です
そもそもは「桐竹鳳凰文」という中国伝来の有り難い紋様であったが、皇室ではこの『桐』『竹』『鳳凰』の中から『桐』を重用して使ったことから皇室専用となり時代と共に、その桐紋が派生して「五七桐」になりました
ここまでで、桐竹鳳凰文の五三桐と現在の五七桐が混ざります
先の元になった「桐竹鳳凰文」での桐紋は上の葉並びが「3・5・3」であったが「5・7・5」の方が高貴な印象だったのでこれが採用されたという経緯です
そうした事から日本の有名な紋章は「桐」と「菊」になりました、菊はその後の「後醍醐天皇」が好んで使った為に歴代天皇家のメイン家紋に定着しました
この後、醍醐天皇が足利尊氏に下賜して「桐の紋」を使わせる許可を出した事がきっかけで、天皇に賜れる権力者の証のひとつになりました
そして足利尊氏自身もこの紋を家来に(信用や有り難い賜物として)授けた経緯があり、武士社会にも広がりました
(後に戦国時代となり、賜ったことで上級武士階級の権力の象徴とされます)
その後、有名な織田信長が君臨するも色々あり(割愛します)後の豊臣秀吉まで時代が過ぎます
ここでよく知っている太閤秀吉の登場です、お待たせしました!
豊臣秀吉が家臣に褒美として使わせたのかきっかけ
あれよあれよと地位を上げて天皇から「桐と菊花の紋章」を賜り、使用を許された豊臣秀吉は自分の威厳を世に知らしめる為に「桐の紋章」を調度品や建物や着物に取り入れたり、家来にも形を変えて分け与えて使わせました
こうして賜りの連鎖が続いていき武士に留まらず、商人や一般市民にも浸透していきます
そのあまりの広がりに豊臣秀吉は「菊桐紋禁止令」まで出したが時遅し、オリジナル感を出したいが為に秀吉公は「太閤桐」を作りました
こうして「太閤桐」は少し違うデザインになったのですね
一方、庶民には「五七桐」を使うよりも身近で気軽な「五三桐」の方が人気が高かったようです、こうして後の江戸時代まで浸透して広く普及し、現代でも個人使用があるため、庶民感があるのです
明治の頃は、菊紋の使用には禁止令が出され皇室専用になったこともあり当時の政府は紋章として、菊に並び格が高い「五七桐」を使うようになりました
また、他省庁などは「五三桐」を使用しているところもあります、少し「七」に遠慮した「三」を取り入れたということですね
また、敗戦の混乱により、家紋がわからなくなった一般人は代替え紋として五三桐を用いるようになった事も合わせて経緯とされています
最上クラスの家紋とされながらも一般庶民間には深く浸透していて、その知名度があったこともあり政府と民の一体感を表すものとして採用された五七桐が今日迄に使われたのは自然なことなのかも知れません
五三の桐・五七の桐の「の」って?
記事や文章には五三の桐・五七の桐と表される事もあり「の」が入っていることがあるが意味としては同じことです
一つ私の考察としては天皇から下賜される氏と姓(うじ・かばね)に由来するのでは無いかと考えます歴史でも聞いたことがある、源頼朝(みなもとのよりとも)や藤原鎌足(ふじわらのかまたり)や平清盛(たいらのきよもり)のようにこの「の」が付くもののことを、そもそも「氏:うじ」と言って苗字とはまた別物なのです(面白い情報ですよね〜)
例えば、平清盛は、「天皇から賜った氏である平」の「清盛」と名乗りなさいということなのです
このように多くを区別するために家紋にも□□□の△△△というような言い方・呼び方があるので
これをそのまま字に起こしたから五三の桐・五七の桐とも表現するというようになったのではと推測します
また万葉仮名が起源になった「ひらがな」が西暦900ころに広がっていった為に
五三桐・五三の桐・五七桐・五七の桐が混同して表現され記載されたものがあったとも推測できます
単に助詞である「の」は二つの名詞を結び付ける連体修飾語なだけかもしれません
まとめ
家紋・五七桐(ごしちのきり)は、かつてから皇室専用の紋章だった
足利尊氏より豊臣秀吉が使用されたことが一般的に知られている桐紋の一種
そもそも「桐竹鳳凰文」という中国伝来の紋様であったが、皇室では『五三桐』を重用して使ったので皇室専用となったが、後に五三より五七の方が高貴な印象なので「五七桐」と変わっていった
皇室の紋である菊に関しては、後の「後醍醐天皇」が好んで使ったのが始まりで、これが後世に繋がった事から日本の有名な2代紋章の「桐」と「菊」となる
後醍醐天皇が足利尊氏に「桐の紋」を使わせる許可を出した事がきっかけで、天皇に賜れる権力者の証のひとつになりました
そして足利尊氏自身も家来に信用や有り難い賜物として授けたことから武士社会に広まりそれを欲した豊臣秀吉は、自分の威厳を世に知らしめる為に「桐紋」広めた
家来にも形を変えて分け与えて使わせた、この賜りの連鎖が続いて一般市民にまでに浸透していった
庶民には「五七桐」は恐れ多かったので「五三桐」が定着し、後の江戸〜現代まで続く
明治には十六葉八重表菊紋は使用禁止であるために政府は紋章として、次に格が高い「五七桐」を採用し使われるようになり今日に至るということです
ついでに超有名名門校の「筑波大学」はまさに政府の学校という事になり、ココ出身者が日本を動かすのだとか・・・
こうして家紋に流れを持って知ると面白く、有り難さが感じられますね
日本料理も料理法と由来を共に学ぶ事で守るべき所の云われに関して何か新たな物を見つけることができるかも知れません
人名・地名など沢山伝わり方があるのも楽しめるところの一つではないでしょうか?
以上、これからの公邸料理人はぜひ知っておきましょう
それでは今回も閲覧ありがとうございます、ではでは
価格:935円 |
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